私たちは、諸行無常の世界に住んでいます。諸行無常とは、この世に存在するものは、一瞬の停止もなく生滅変化するという真実をあらわす言葉になります。
どんなに元気な方であっても、自然災害や、不慮の事故、疫病の流行などで一瞬にして健康を害したり、いのちが尽きてしまうことすらあります。また、順調な仕事に誇りを感じ、それらが永遠に続くことを願っていても、周囲の環境の変化で悪化したり、失ってしまうことすらあります。
しかしながら、人類の歴史を振り返ってみますと、自然災害や、不慮の事故、疫病の流行は何度も繰り返されてきたことです。たとえ、私にとっては初めての経験であっても、人類は同じようなつらく苦しい経験を何度もしてきました。
健康で、財産、地位、名誉などをたもつことができているのは、とても貴重なことなのです。今、私が健康に過ごせているのは、家族のために、ご近所の方々のために、社会のすべての方々のために一生懸命はたらいてくださる方々など、貴重な多くのいのちのささえがあるからです。
それらの貴重なささえの一部でも崩れてしまうなら、私の健康、財産、地位、名誉などはたちまち崩れ去ってしまうかもしれないのです。
このように何もかも一瞬一瞬移り変わってしまう世の中で、家族のいのち、ご近所の方々のいのち、社会のすべてのいのちの危機を、わがことのように感じ、精一杯はたらいてくださっている尊い方々が大勢いらっしゃいます。阿弥陀仏のように、すべてのものを摂め取って捨てないとうはたらきはできませんが、自らのできる精一杯をなさっていらっしゃるのです。また、私のいのちが続くように、わたしたちの子孫がそのいのちを受け継げるように懸命に努力してくださったのが、先にお亡くなりになった私たちのご先祖さまたちです。そのお一人お一人のいのちは、尊く大切なものです。
また、阿弥陀仏のみこころを信じたものは、南無阿弥陀仏と称える人生を歩むのだといわれます。南無阿弥陀仏という言葉には、阿弥陀仏のみこころを信じさせていただくという意味があります。無常という現実を知らせて、健康や財産、地位などが永遠に続くことのみを夢見るこころの闇を恥じ、限りのある人生の貴重さに気づき、このいのち終わった後には、限りのない永遠の真実と一つになることを目指しなさいと常に呼びかけてくださる阿弥陀仏のみこころを疑いなく信じることができるなら、浄土に往生して永遠の仏となることが定まるのだといいます。南無阿弥陀仏という言葉を称えることは、阿弥陀仏のみこころを信じなさいという仏の願いにかなう行いでもあるので、摂め取って捨てないという阿弥陀仏のご恩に報い、感謝の思いを示すことにもなるのです。
先にお亡くなりになった方々は、限りある寿命を終え、阿弥陀仏の永遠のこころの世界である浄土に往生され、永遠のいのちの仏さまになられました。今は、阿弥陀仏と一つとなられ、永遠に私どもを見守ってくださる存在なのです。
阿弥陀仏のみこころに出逢い、先にお亡くなりになられた方々の人生を偲び、自分のいのちも含め、今、私をささえてくださっている多くのいのちの貴重さ、尊さに気づいて、いのちある今の私のありさまや、いのち終えた後に永遠のいのちを与えられることへの感謝の思いをもち、その思いを大切に生き抜くこと、これこそ、「帰命無量寿如来・南無不可思議光」、即ち「南無阿弥陀仏」を称え、阿弥陀仏や周囲の多くの方々や、ご先祖さまたちへのご恩返しの人生を送ることになるのではないでしょうか。
]]>◇ ◇ ◇
さて、筆者は、阪神淡路大震災(以下阪神大震災)の時、丁度大阪にいました。
震災当日、NHKのテレビは「地震があった」という報道のみで、コンビニでシャンプーなど数本が倒れている映像のみであり、神戸の記者も妙に落ち着いており、震災などなかったかのように雑談ばかりで、なかなか本題に入らず、「一人では動かせない本棚が動いた」というのがすべてでありました。キャスタ-も「ああそうですか」で終わり、総まとめとして「大阪では被害もないようです」と興味なさげに終わりました。社内の影像もたいしたことのないもので、大阪震度5、京都震度4、神戸震度6という報道がでていました。
一方、ほぼ同時刻での関西の民放は、かなり大きな震災であると報道し、放送局の天井が落ちてきている影像も流され、神戸では火災が起き、大阪でも3ケ所で火災が起きている、大変なことが起きている、阪神高速が倒れているらしいとキャスターも顔をこわばらせ悲愴な表情で放送し、電話をかけるのを自粛してほしい、車で乗り入れるのは自粛して欲しい等々震災の対応が次々に述べられていました。
夜が明け、現地の状況が知られるについて大変なことが起きていることがわかりました。
◇ ◇ ◇
そのような状況の時、一般の方や学生さんが多数集まり、荷物を運んだり、救済活動に邁進され、ためにこの年がボランティア元年といわているそうです。
日本人の助け合いの心が衰えてきたといわれることもありますが、そうではないと実感できるものでした。
被災された方々も、静かに救援を待ち、助け合いながら苦難の生活をされていました。
阪神大震災当時、アメリカは「日本は建物は倒れないといっていたのではないか」と疑問をなげかけながらも、救援をしようと呼びかけ、フランスは女性記者が「恐かった」と語り、人々はパニックに陥らなかったとしきりに感心していました。
出典は忘れましたが、江戸時代から明治初期に日本に訪れた外国人も、地震に出会い、村々の家屋が倒壊するなどを目にしていたようですが、翌日には隣村や他の地域から、人々が木材やロープを満載した大八車を押したり、ひいたりされながら救援にやってきていることに驚き、自分の国では皆、天を仰いで嘆息するだけなのに...と驚いている記述があります。
筑紫哲也氏は、「自分は海外の震災を取材したが、略奪が起きず、こういう状況下でも被災した人々が整然と行動しているのは評価してよいのではないか」と阪神大震災時の人々の行動を指摘されていました。
◇ ◇ ◇
日本は、昔から、地震や台風が多く、自然の驚異におびやかされているなかで、このような精神や姿勢がつちかわれてきたのかもしれません。
その精神は、まさしく仏教の言う忍辱であり、大乗仏教では、特に対他的な徳目、忍辱波羅蜜として重視されているものです。
こういった苦難に耐え忍ぶということが、徳目として具体的にうたわれているいることも仏教の大きな特徴といえましょう。
日本人が阪神大震災をはじめとする災害に繰り返し出会いながら、それに耐え、助け合いながら立ち上がりつつけてきたことは、自然災害が多かったからということもありますが、それだけでは説明がつかないもので、やはり精神文化、つまり仏教の影響がると見られましょう。
日本人は宗教心が薄いといわれますが、これはまた仏教が日本人の精神に深く根付いているがために、意識されないで、耐え忍ぶことが大切だと自然に出てきているのではないかと思います。
アメリカが救援しようと呼びかけ、また各国からも救援があったことはありがたく感謝にたえないことで、困難な時に人間には思想・宗教・国家の枠を超えて助け合う精神があるということも、また再認識されるべきであると思います。
]]>2.無常感と無常観
こうした仏教的な世(人生も含む)の無常については、日本の文学作品には様々に表現されるところです。最も有名な菜『平家物語』には、
祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす
とあります。また『方丈記』には、
行く川の流れは絶えずして しかももとの水にあらず
とあって、こうした無常の捉え方は、本居宣長の言葉を借りると「もののあわれ」感と呼称することができます。この無常の捉え方について、評論家の小林秀雄は、これらは単に、人間や世間のはかなさ、頼りなさを情緒的、詠嘆的に表現しようとした日本的美意識としての「無常感」であり、インドの仏教が主張する、苦を脱却するための「無常観」とはかなり趣が異なると論評しています。
3.、松尾芭蕉の辞世の句
仏教本来の無常観を考えるにあたって、松尾芭蕉さんのエピソードを取り上げてみます。
芭蕉さんの最後の句は、「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻(めぐ)る」と言われています。確かに人生で最後に詠まれた句と言えます。しかし、芭蕉さんは決してこれを「辞世の句」とは考えていなかったようです。晩年に、「辞世の句」を望んだ門人に対して芭蕉は、
昨日の発句は今日の辞世、今日の発句は明日の辞世、一句として辞世ならざるはなし
と仰ったそうです。つまり、芭蕉は、今までに自分が詠んできた一句一句はすべて、明日をも知れぬいのちであるから、今日、この時が最後とも思い、辞世の句として大切に詠んできたというのです。「平生即ち辞世なり」とことさら辞世の句を示さなかったのです。
無常観とは、世界と人間の実相をよくみることで、「今のいのち」を精一杯生きると言うことだと思います。虚無主義的な無常感とは一線を画するものと言えましょう。
しかし、前言を撤回するわけではないのですが、虚無的に人生や世の中を見ることも、仏教の無常には含まれているのではないかとも思うのです。「自分の思い通りにならない」、こうした把握から、真実とは何かを考えるきっかけになるとも思います。
良寛の、「散る桜 残る桜も 散る桜」にはどちらの要素も入っていて、ほんとに味わい深さを感じます。
保育の世界では、「自由遊び」という言葉が使われることがあります。筆者はあまり使いませんし、あまり好きではない言葉です。筆者は、「自由遊び」と呼ぶかわりに、「自ら選んでする遊び」を使っていました。なぜ好んで使わないのか、深く考えたことはないのですが、先述のジョージ富士川の言葉をきっかけとして考えてみることにしました。一般的に「自由遊び」というと、子どもが好き勝手にすることだと考えられています。好きなときに遊び、好きな人と遊び、好きな場所で遊び...。こうした保育は、小学校以降の生活が決められた生活では対応が難しく、勝手気ままな子どもに育つのではないかという批判を耳にすることがあります。しかし、勝手気ままな子どもを育てることが、保育の目的であるはずがありません。子どもたちは、自ら選んだ遊びや生活を通して、自分で選択し、判断したり、考えたりしていきます。時には、周りの人とぶつかることがあっても、話し合いを通して解決しようとし、我慢したり相手に譲ったりもします。こうした営みは決して自分勝手ではなく、素敵な生き方の基盤になっていくのではないでしょうか。
「自由遊び」の自由を、ジョージ富士川の言葉と重ねると、その意味がみえてくるような気がします。「好きなときに遊び、好きな人と遊び、好きな場所で遊び...」だけであるならば、煩悩のままに生きていることになります。言い方を変えると、煩悩の中でも、代表的な煩悩である三毒(貪欲・瞋恚・愚痴)にコントロールされた生き方そのものなのです。しかし、「自ら選んだ遊びや生活を通して、自分で選択し、判断したり、考えたりしていきます。時には、周りの人とぶつかることがあっても、話し合いを通して解決しようとし、我慢したり相手に譲ったりもします」は、信心、すなわち仏さまのはたらきに(み教え)にコントロールされた生き方につながっていくのではないでしょうか。煩悩にコントロールされた行動は、煩悩に支配された不自由な姿であると感じます。反対に、阿弥陀様のみ教えにコントロールされた行動は、周りの方々への想像力を発揮し、自分の力を存分に発揮できる自由な姿なのではないでしょうか。
二十五代ご門主の大谷光淳様が、「念仏者の生き方」の大切な心を、簡潔に四箇条のことにまとめてくださった「私たちのちかい」があります。
私たちのちかい
一、自分の殻(から)に閉じこもることなく 穏(おだ)やかな顔と優しい言葉を大切にします 微笑(ほほえ)み語りかける仏さまのように
一、むさぼり、いかり、おろかさに流されず しなやかな心と振る舞いを心がけます 心安らかな仏さまのように
一、自分だけを大事にすることなく 人と喜びや悲しみを分かち合います 慈悲(じひ)に満ちみちた仏さまのように
一、生かされていることに気づき 日々に精一杯(せいいっぱい)つとめます 人びとの救いに尽くす仏さまのように
その四つ目にあるように、「気づき」「つとめる」ことが大切であるとお示しくださっています。「気づき」「つとめる」ことは、煩悩に支配された不自由な生き方から解放される、自由な生き方だと気づかされるのです。
]]>〔法鼓文理学院・岐阜ブック メーカー スポーツ ベット 学園サッカー 賭け アプリ 学術交流〕
「日本における法華経の火宅三車の喩の展開について」
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部 教授 蜷川祥美
お念仏には、観想念仏(精神を集中して阿弥陀仏やその浄土を観察して自らの心を清浄にして往生を果たす実践)と、称名念仏(精神を集中できない者でも、「南無阿弥陀仏」と称えることによって往生を果たす実践)があります。中国や日本でも二つの流れがありました。称名念仏によって浄土往生が果たせるのだとの主張は、中国の善導大師(613~681)がお示しになっていましたが、天台宗など、修行をして自らの能力を高めることによって浄土往生を目指す方々は、修行を完成できない愚かなものでもできる称名念仏は劣った実践であり、修行としての観想念仏こそ優れた実践であるとご主張なさっていました。
しかしながら、阿弥陀仏は、あらゆる生きとし生けるものを救うために、本願をお誓いになられました。その本願に誓われた実践こそ、修行のできる者も、できない者も、誰もが実践できる称名念仏であり、この教えこそ、すべての者が浄土に往生して仏と成ることのできる真実の教えだという主張です。
法然聖人は、天台宗の出家修行者でいらした頃、「智慧第一の法然房」と称されるほど、学徳に優れ、永年のご修行により、他者と比べると、心もきれいな方であったと思われます。しかし、そのような方でも、自らの本性を省みる時、煩悩をすべて消し去ることができず、きれいな心が続かないため、浄土往生して仏と成ることなどかなわぬことだと悩まれていらしたのです。
自らの浄土往生への道を求めて、何度も経典や論疏を繙くうち、善導大師の『観経疏』に、「一心に称名念仏すれば、浄土往生が果たせるのは、それが阿弥陀仏の本願に誓われた実践だからである」との文が記されていることにお気づきになり、これこそ、私のような愚かな者が浄土往生を果たすことができる道であり、あらゆるものが仏と成ることができる確かな道であるとの確信を得られたのです。永年の修行によって実現できなかった道が、称名念仏によって確かなものとなったのです。
仏教徒は、仏と成ることが目標です。「南無阿弥陀仏と申して、うたがいなく往生する」という思いには、南無阿弥陀仏、すなわち称名念仏によって、浄土往生を果たし、仏と成るための確かな道を歩みたいという思いにつながることであろうと思います。
親鸞聖人は、阿弥陀仏の本願のいわれを信じた者が、報恩謝徳の思いで称えるのが「南無阿弥陀仏」であるとお示しくださいました。その教えは、善導大師や法然聖人から受け継がれたものです。
『歎異抄』第二条に、「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり」とあります。この親鸞においては、「ただ念仏して、阿弥陀仏に救われ往生させていただくのである」という法然聖人のお言葉をいただき、それを信じているだけで、他に何かがあるわけではありませんという意味です。これは、法然聖人の「南無阿弥陀仏と申して、うたがいなく往生するぞと思いと」るとのお言葉をゆるぎなく信じられていらっしゃることを示しています。
また、『高僧和讃』源信讃に、「極悪深重の衆生は 他の方便さらになし ひとへに弥陀を称してぞ 浄土にうまるとのべたまふ」とあります。天台宗の源信和尚(942~1017)は、「きわめて深く重い罪悪をかけているものが救われるには、他の手だては何一つない。ただひとすじに阿弥陀仏の名号を称えることで、浄土に生まれることができる」といわれているという意味です。これは、源信和尚の『往生要集』を引用なさったご和讃です。法然聖人と同じ意味のお言葉を、源信和尚も残されているのです。
中国の善導大師、日本の源信和尚、法然聖人がお示しくださった「南無阿弥陀仏と申して、うたがいなく往生する」という称名念仏の教えが、親鸞聖人に受け継がれ、現代に伝えられています。紹介した4名の学匠方は、いずれも経典や論疏に精通した優れた方々でありながら、自らを修行を完成できない愚かなものであると深く自省の思いをもっていらっしゃいました。愚かな者も仏と成ることができるという称名念仏こそ、真実の教えであるという確信が、多くの先達によって示され、受け継がれてきのです。愚かさが一向に解消されないままの現代の私たちが、理想を目指す生き方を志向する際に、この教えは大きな意義をもっているように思います。
]]>昨今「親ガチャ」という言葉を聞きますが、我々が学生の頃は、「親ガチャ」という言葉はありませんでした。紺谷典子氏によると、経済の衰えた先進国も含め、全世界の国民の平均所得が、この20年間で最低2倍になっているそうですから、日本人の平均年収は、20年前に500万円代であったとしますと、現在は少なくとも1000万円以上あることになります。ところが、現在、日本のみが、規制緩和以降、大企業の役員の年収は先進国に歩調をあわせ倍増、倍々増、あるいはそれ以上になり、高名な大企業の会長の報酬は、ほぼ10億円になりながらも、一般の国民の年収は、500万円から600万円前後と数十年間「据え置き状態」という世界ではあり得ない異常な状態にあります。このため、富んだ親の子に生まれると富の継承と上昇の固定化がなされ、貧しい親の子に生まれると貧しさの継承と固定化が生じるという、たまたま生まれた親の貧富によって、子供の未来の貧富も人生も決定し、個人の努力では挽回が効かないため、「親ガチャ」という言葉が出てきたと言ってよいでしょう。規制緩和までは、人生は、生まれた環境にある程度、左右されながらも、個々の努力によって、人生を切り開く余地があったので「親ガチャ」は言われませんでした。若者は、豊かな感性によって、以上のことを窺知し、すべてまとめて「親ガチャ」の一言で表現していると言えましょう。
<インドの哲学書によると>
インドの哲学書を見ておりますと、生まれてくる子供は、次に親になる男女の性行為を横で見ているそうです。性行為をしている男性側に愛着がわき、女性側に嫉妬心がわいて「あっちへ行け」と思い迷い、ついにその迷いが極度に達するとその瞬間、その女性の胎内に宿り、女性としての生を受けるといいます。男性として生を受ける場合は、この逆で、性行為をしている男女の女性側に愛着がわき、男性側に嫉妬し「あっちへ行け」などと思い迷い、その迷いが極度に達したその瞬間、その女性の胎内に宿り、男性として生を受けるということになるそうです。あくまで伝説ですが、この伝説によれば、子供は親は選べないという「親ガチャ」ではなく、子供は自分で親を選んできたことになります。
<子ガチャ>
また親からすると、「子ガチャ」もあるのではないかと思います。将来、発明家になって欲しい、あるいは、プロのサッカー選手や野球選手に、あるいは音楽家にと親の願いは尽きず、また様々です。しかし、その願い通りに子供が育たないことも多いのではないかと思います。倫理観のある、真面目な親が、優しく、いっしょうけんめい子育てをしても、子供はなぜか遊び人になり放蕩の限りを尽くしたりすることもあるでしょう。これらは「子ガチャ」ということになると思います。しかし、親は、子供がどうであっても、子供のすべてを受け入れて、むしろ、自分のところに来てくれたのだと、ありがたく思って慈しみ育ててきました。子供も、やがて、その親の心、慈しみがわかり、親を大切に想い感謝してきました。
<ご縁>
そういった人智ではわからない出会いをまとめて、特に日本では仏教の用語を借りて「ご縁」と言ったのだと思います。日本人は、「ご縁」を感じ、受け入れ、大切にし、感謝し、がんばってきたのですが、この伝統と心を踏みにじり破壊し、「親ガチャ」という言葉を作り出したのが規制緩和であり、その罪は大きいと思います。「子ガチャ」を言わないのは、「子ガチャ」は、「規制緩和」がかかわらず、今も、古来からのままであるため、人々が古来の「ご縁」の理解のまま受け取っているからだと思います。
《結びに代えて「お陰様で」ということ》
「親ガチャ」の言葉の出現とともに、昔から日本で言われてきた「お陰様で」ということが、あまりいわれなくなってきました。 昔から日本では、自分が成功しても、富んでも、その成功や富は、他の人々や環境の「お陰」であるという意識、つまり「お陰様」という意識があったのです。膨大な年収を得ている大企業の会長や役員が、「お陰様で」という古来聞かれた言葉を一切口にしなくなったのは、会社が繁栄し、膨大な年収をいただいているのは、すべて、自分のみの努力の結果であり、自分のみの功績であるから、富を独り占めしてよく、成功しなかった人は努力を怠ったからだとする規制緩和の自己責任論と競争原理で物事を考えているからでしょう。「お陰様で」は、失敗した人にも、ご縁が揃わなかった面もあるから、責任のすべてをその人のみに帰すことのない、あたたかさをもった言葉であり、考えでもあります。
再び、「お陰様で」という言葉が出る社会になったらいいなあと思っています。
]]>2.語録から
その牧野先生の語録には大変有名な言葉が残されています。
あるインタビューを受けたときに、きみ、世の中に〝雑草〟という草は無い。どんな草にだって、ちゃんと名前がついている。わたしは雑木林という言葉がキライだ。松、杉、楢、楓、櫟----みんなそれぞれ固有名詞が付いている。それを世の多くのひとびとが〝雑草〟だの〝雑木林〟だのと無神経な呼び方をする。もしきみが、〝雑兵〟と呼ばれたら、いい気がするか。人間にはそれぞれ固有の姓名がちゃんとあるはず。ひとを呼ぶばあいには、正しくフルネームできちんと呼んであげるのが礼儀というものじゃないかね(木村久邇典『周五郎に生き方を学ぶ』実業之日本社より)
と述べられたそうです。「世の中に雑草という草はない」との言葉です。また別の対談ででは、
どんな植物にも固有の名前がある。それを無視して「雑草」「雑木林」などと人間にとって要不要だけで分類するのは、おこがましいという主張でした。(山本周五郎との対談)
とも仰っています。
私はこうした言葉は、仏教の言う「分別知」と「無分別智」、つまり、さとりの智慧によるいのちに対する見方と同じで、とても印象に残りました。
3.分別知と無分別智
人は物事を理解するために、物事を分けて分析をして、そしてその対象となったものの特色を把握します。いわゆる「科学」です。それはとても大切なことなので、それ自体が批判されるべき事では全くありません。牧野先生も科学者です。仏教では、そうやって物事を理解するために考えること(知恵)を、「分別知」と呼んでいます。私たちの日常生活で働かせている知恵のことでもあります。
しかしながら、その知恵は、常に人間(自分)の都合で、役に立つもの・立たないものの仕分け作業をしていて、そうした営みの中で、「雑草」や「害虫」というように、同じ地球上に生まれて生きている「いのち」に対して、失礼な呼び方をしているのです。他ならぬ私自身もそうです。たしかに生きとし生けるものはすべて縁をもらってそのような「いのち」として存在しているのでひとつひとつ尊く、かけがえない存在であります。しかしながら、私たちは生活上、どうしてもすべてのいのちと仲良くすることはできません。
いま述べましたように、宇宙・世界は、本来、すべて関係しあっていて、しかも絶え間なく変化し続けていますが、そうしたいのちのありようを「縁起」といいます。仏の智慧とはそういう世界を、自と他を区別せずありのままに見る智慧であり、それを「無分別智」と呼んでいます。またそこに自身の都合による、どのいのちが要・不要という仕分け作業はありません。
こうした見方(無分別智)はとても大切なものですが、現実的にはその心に生きることはなかなかに難しいことであります。人間(自分)は、時に分別知的視点でいのちの間に差を作り、若いほうが老より、健康の人ほうが病人より価値があるといった見方をして、他者と比較し、過去の自分と比較して、人のいのちにランクを付け、いまの自分のいのちを受容できなくなっていることがあるのではないでしょうか。牧野先生が教えてくれているように、人間中心主義に立って、いのちのありようを見失いがちになっていないでしょうか。
親鸞聖人は、そうしたいのちの仕分け作業から離れること出来ない私たちのために阿弥陀如来が常に念仏することをすすめ、南無阿弥陀仏(はかりしれないいのちの世界に立ち返れ)と喚びかけて下さっていると説かれました。
4.おわりに
最後にもう一つ牧野先生の言葉を紹介して終わりたいと思います。
植物は人間がいなくても少しも構わずに生活するが、人間は植物が無くては生活の出来ぬ事である。そうすると、植物と人間とを比べると人間の方が植物より弱虫であるといえよう。つま り人間は植物に向こうてオジギをせねばならぬ立場にある。
(『牧野富太郎 植物博士の人生図鑑』)
この言葉を聞いて、私は自坊の境内の除草作業で暑い中ご苦労をいただき作業していた門徒のおばあさんが、「なまんだぶ(南無阿弥陀仏)、なまんだぶ・・・」とお念仏申されていたことを思い出しました。これを懺悔の念仏と言います。南無阿弥陀仏
「のぞみ」のない世界とは、 絶望の淵に立たされることだけが「のぞみ」がないことではありません。日々の葛藤や悩み、揺れなどからくる心のざわめき、いわゆる欲の世界も「のぞみ」のない世界なのです。「欲望」という言葉から「望」をとると、「欲」しか残りません。「極重悪人」といわれる私たちの姿は、まさに「のぞみ」のない世界(「よく」ばかりの世界)だといえるのかもしれません。
また、「ひかり」のある世界は、「のぞみ」がない世界の中にいても、自分の欲がみえてきて、それと向き合いながら、克服しようと自分らしく歩いて行ける世界だと味わわせていただけるのではないでしょうか。自分らしく歩けないような暗闇の世界は足下がとても危険な状態です。徳島県に大歩危・小歩危【おおぼけ・こぼけ】という地がありますが、「ぼけ」とは、思考が鈍くなったり、頭がボーっとしたりすることではなく、足元がおぼつかない状態をいうのかもしれません。しかし、光に照らされることによって、「のぞみ」がない欲ばかりの世界であっても、見ることができ、確かな歩みを踏みしめることができるのです。
極重悪人唯称仏(ごくじゅうあくにんゆいしょうぶつ)
我亦在彼摂取中(がやくざいひせっしゅちゅう)
煩悩障眼雖不見(ぼんのうしょうげんすいふけん)
大悲無倦常照我(だいひむけんじょうしょうが)
正信偈には「煩悩によってわたしたちは仏さまの慈悲のひかりを見ることはできないけれども、常にひかりは私たちを照らしている」と親鸞聖人が詠まれています。「望」を失って「欲」だけの私でも、生きることが苦しい私でも、仏さまのさまざまな智慧や慈悲のはたらきは「ひかり」と表現されます。それに対して、わたしたちはみな無明(むみょう)とよばれる大きな煩悩(ぼんのう)の闇を抱えています。普段はなかなか仏さまの光の存在に気づきませんが、煩悩の闇を照らす仏さまの智慧や慈悲の光は存在するのです。その明かりに照らされて、確かな人生の歩みを一歩一歩踏みしめていきたいと願っています。
]]>それを違った角度から見てみましょう。
<ワールドカップでの試合終了後の選手やサポーターの清掃>
今回のW杯の各試合でも、また他の大会でも、勝ち負けにかかわらず、試合後、選手がロッカールームを清潔にしてスタジアムを後にし、またサポーターもゴミを清掃して帰っていくことが世界に報じられ、日本人のマナーが称賛されています。ロッカールームには折り鶴も置かれていました。
この日本人の清潔さ、清潔好きへの評価や称賛はサッカーの試合後の清掃のみではありません。
海外からの旅行者によって、日本の都市や町、村、道路、そして電車、新幹線がすべて非常に清潔であることが称賛をもって語られています。
また、小学生が自ら教室の清掃活動をすることも、海外から驚きと感銘をもって語られ、中東のテレビでは非常な称賛とともに紹介されています。
むろん、すべての日本人が清潔にしたり、日本のすべての場所が清潔であるわけではありませんが、概して、日本人は清潔好きであるといえ、特に他人の所有物や他人に返すものは清潔に使う、清潔にして返すという傾向が強いと言えましょう。
ですから、日本人の何事も清潔にする姿勢は、普遍性があると見てよいでしょう。
<歴史的にも日本人は清潔好き>
日本人の清潔好きは、すでに戦国時代に訪れた宣教師によって指摘され、日本人は、建物、道具、衣服、食事、仕事をすべて清潔にし、清潔な場に来訪者を迎えるのが礼儀であり、日本人にとって、不潔さは絶対に耐えがたいことであると述べられています。
清潔好きは、日本人のもって生まれた本能、感性ということがわかります。
新型コロナウイルスで、手洗いや消毒が呼びかけられましたが、なんの抵抗もなく受け入れられたこともそのためで、日本人にとって自然な行為だったからです。
<日本人の清潔好きは本能であり感性であり宗教>
お世話になったロッカールームやスタジアムを清掃し清潔にして返すということは、相手に対する感謝の形になり、日本人持つ感覚です。
また同時に、日本人の持つ宗教的な神道的感覚でもあります。神道は日本人の生活様式、価値観の総体が宗教になったものであり、故に教義も、戒律も、善悪の基準さえもありませんが、まさしく日本人の価値観、生活様式の象徴であり、故に重要なことは清らかさです。
清めると、そこから不思議な力が生まれる...つまり、清潔さに神聖さと力を感じるということで、これが日本人の持っている感性であり感覚であり価値観です。
ロッカールームやスタジアムの清掃は、この感謝と神道の感性の2つが重なった行動といえ、試合が終わったあと、相手への感謝を込めてもとのきれいな状態にして返す、しかも清潔な神聖なものにして返すということになります。
ですから、日本人が清掃をするという行為は、マナーや礼儀もありますが、そこには相手への感謝の気持ちの表現と、同時に清掃そのものよりも、清掃の結果に出現する清潔さ、きれいさに重きがあり無意識に神聖性を見だしている感性があると言ってよいでしょう。
外国の人には、この感性や感覚、生活上の価値観がありませんから、清掃という行為そのものが礼儀やマナーにかなっていることからの理解になります。
<むすび>
このように日本人が清掃をし、何事も清潔にすること、清潔好きであることは、マナーや礼儀もありますが、マナーや礼儀、善悪を越えた相手への感謝の行為、さらには清潔さに神聖性を感じるところに日本人の特性があります。
選手の誰もが、異論をとなえず皆が協力してロッカールームを清潔にし、折り鶴を置き、サポーターがうちそろって清掃活動する姿は、文化の異なる外国の人の目からは、教育のなせるわざとか、民度と言われますが、むしろ、日本人の持つ感謝の表現、本能的に持つ神道的感覚・価値観であり、それが海外の人には少々理解できにくいため、マナーや礼儀、あるいは教育、民度という理解となるのだと思います。
日本の仏教寺院も例外ではなく、一般の人が思い浮かべる印象は、御住職が掃除をされている姿であったり、修行僧といえば、廊下の拭き掃除をしている姿であるのも同じです。
それは、仏教の身器清浄(自分の身体も環境世界も清らかにする)の教えもありましょうが、それを日本人が容易に自然に行い達成することができるのも、上と同じ感性のなせるわざだと思います。
このように、W杯での選手やサポーターの清掃は、日本人の感性からは、礼儀やマナーを越えた相手への感謝の表現であり、同時に神聖性に至る行為なので抵抗なく、むしろ当然、かつ積極的に、また思わず出てしまうこととさえ言えましょう。
クロアチアとのPK戦で敗退した後、それでもなお、森保監督のサポーターへの深々とした深い礼もまた自然に出る感謝の姿であるといえましょう。
]]>2.世(私の日頃)の願い
さて、夏休みには地域によっては「地蔵盆」という行事が行われます。「お地蔵さん」と呼び親しまれている、「地蔵菩薩」の縁日(8月24日)を中心にした2,3日間に渡って行われる法要のことをいいます。子供が中心の行事で、近畿地方を中心に根付いています。お地蔵さんに対する信仰は元々はバラモン教からはじまり、それが仏教に取り込まれ、、中国を経て平安時代には日本に伝わってきています。仏教行事ではありますが、中身は、呪術信仰的な民間信仰となっています。死んで迷いの世界へいった人を救う地蔵、願いをかなえてくれる地蔵、苦しみを代わって引き受けてくれる身代わり地蔵、村のはずれに立って災いを除いてくれる地蔵。人間の悩みや悲しみの数だけ地蔵さんがあるのでしょうか、日本では沢山の地蔵さんがいます。
地蔵菩薩は、六道それぞれを駆け回り、すべての存在を救うという意味で、6体セットで置かれることも多く、六地蔵とも言われます。その地蔵信仰にまつわる昔話を伺ったことがございます。
ある村に二つのお地蔵さんがいました。一つは何でも願いをかなえてくれるお地蔵さんです。もう一つは、人間の守るべき道、真実の世界や生き方を教えてくれるお地蔵さんです。どちらにみんなお参りするかというと、当然何でも願いをきいてくれるお地蔵さんです。病気を治してください。お金を儲けさせてください。長生きしますように・・・大繁盛です。もう一方のお地蔵さんはというと誰もお参りしません。 そういう村に一人の綺麗な娘さんがいました。この娘さんに二人の男が恋をします。どうしても結婚したい。二人の男は互いにそう思っていました。
「そうだ、村には何でも願いをかなえてくれるお地蔵さんがいる」。一人の男が思いつきました。
「よし、お願いしよう」 「お地蔵さん、どうかあの娘さんと結婚させてください」。効果抜群。その願いがかなって娘さんと結婚することできました。幸せいっぱいです。ところが、面白くない男が一人います。娘さんに恋をしていたもう一人の男です。幸せそうな二人をみるにつけても、腹が立って煮え繰り返ってきます。「今に見ていろ。よーし、こんどは俺がお地蔵さんにお願いしてやる」。
「お地蔵さん、どうか憎たらしいあの二人を殺してやってくれ」。願いがかないました。とうとう結婚したばかりの幸せいっぱいの若い二人は死んでしまいました。これをみていた村人は、さすがに反省しました。
「願いをかなえてくれるお地蔵さんばっかり拝んでいるとみんな不幸になってしまう。それよりも、人の守る道や真実の生き方を教えてくれるお地蔵さんにお参りせんならん」と。
それからは、何でも願いをかなえてくれるお地蔵さんには参らずに、人の生き方を教えてくれるお地蔵さんにお参りするようになったということです。
私達の日常は、ともすれば自分中心の、自分が良ければいいという願いに振り回されがちです。しかし、大乗仏教では、そういう処に本当の幸せがあるのではなくて、すべての人を救いたい(利他心)という精神(願い)の中にこそ、私の幸せがあるということを説いています。お地蔵さんも菩薩ですから、本来はそうした精神を伝える方です。
3.超世の願い 法蔵菩薩の願い
冒頭の三つの願いの内容をまとめますと、法蔵菩薩は、あらゆる人々に、心貧しきものに、まことに願うべき事は何かを届け、まことの幸せをめざすよう、その願いを「南無阿弥陀仏」との言葉に込めて、これを称え聞き続けさせ、忘れることなく人生の苦を乗り越えて生きて欲しい、と願われているのです。後期は、この「重誓偈」の意(こころ)をしっかりいただいていきましょう。
〔日 時〕 2022年12月9日(金)9:00~11:00
〔実施形態〕 YouTubeライブ配信
〔参加方法〕
参加の際は以下のURLをクリックしてください。
定刻になりましたらYouTubeで視聴ができます。
https://youtu.be/AlFCjDhMYDs
(参加無料・申込み不要)
〔基調講演〕
「中国の天台浄土教について」
台湾・法鼓文理学院教務組組長 曾堯民 博士
〔討論会〕
曾 堯民 博士 (台湾・法鼓文理学院教務組組長)
後藤康夫 氏 (岐阜ブック メーカー スポーツ ベット
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仏教文化研究所客員研究員)
河智義邦 (岐阜ブック メーカー スポーツ ベット
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教育学部教授)
*日本側通訳者:横久保義洋 (岐阜ブック メーカー スポーツ ベット
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外国語学部准教授)
〔お問い合わせ〕
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仏教文化研究所
〒500-8288 岐阜市中鶉一丁目38番地
TEL 058-278-4189
私自身、水がこぼれたとき、掃除しなきゃいけない、面倒くさい、大変だ、汚れたイヤだ・・・等いろいろな感情が出てきます。どの感情をとっても、すべてが自分勝手な理由です。この自分勝手な理由こそが、過去を変えられない大きな理由があるのだと感じます。親鸞聖人のお書きになられた『正信偈』という偈文の中の一句に「邪見憍慢悪衆生」があります。私たちは正しく物事を見ることができない姿を指摘しておられます。邪見とは、真理にそむいた見方・考え方のことで、自分がいつも一番正しいと思っているよこしまなものの見方をする人のことです。自分の考えに固執して、仏の願いは聞こえないままになってしまうのです。驕慢とは、おごり高ぶりの姿のことです。自分の知恵や財力にうぬぼれ、人の話を素直に聞こうとしない人です。このような人は、自分の力を過信して思い上がるので、仏の願いが届いても聞き流してしまうのです。私たちはこのように、事実を偏見なしに見つめることができない存在で、私は苦しみを自分の外側のせいにばかりしているのです。苦しみを生んでいたのは私自身なのに、切り離すことのできない「自分」と「自分の外側(他者・社会)」を切り離して考えてしまい、その結果、「一方的な恨み」へと発展し、他人への責任転嫁と、怒りの置き換えにつながっていくのです。最近、インターネット上では、「無敵の人」という言葉が登場しています。社会的に失うものが何も無いために犯罪を起こすことに何の躊躇もない人を意味するもので、2008 年頃に 2 チャンネルの創始者である西村博之氏【通称、ひろゆき】が使い始めたインターネットスラングです。最近の社会をみると、自分の苦しみを一方的な恨みに変えて起こす事件が増えてきている気がします。
親鸞聖人は、35 歳の時、流罪という法難に遭われました。流罪の配所である越後へは、過酷な旅であったといわれます。福井、石川・富山の険しい山越えや、断崖に激しく波寄せる親不知子不知の海岸(新潟)など、多くの難所が待ち受けていました。特に親不知子不知の絶壁は、荒れ逆巻く海が足下に迫り、まるで海岸線にそそり立つ屏風のようです。大波が絶えず岸壁を洗い、親は子を、子は親を顧みる余裕もないので、この名がつけられたといわれます。命の危険にさらされる道中を過ぎると、流刑の地での過酷な生活が待っていました。そんな苦難を親鸞聖人は、どう受け止められたのでしょうか。その時のお気持ちをうかがい知ることができる一節が『御伝鈔』に綴られています。
「抑また大師聖人もし流刑に処せられたまわずば、我また配所に赴かんや。もしわれ配所に赴かずんば、何によりてか辺鄙の群類を化せん。これなお師教の恩致なり。」(『御伝鈔』)
訳すると、「恩師・法然さまが、もし土佐への流刑に遭われなければ、この親鸞も新潟に流されることはなかったろう。もしそうならば、どうしてこの土地の人たちに阿弥陀仏の本願をお伝えすることができただろう。ひとえにこれ、お師匠さまのご恩の賜物。親鸞、喜ばずにいられないのだ」と述べられ、流罪という悲劇を心から喜んでおられるのです。もしこの私が同じ境遇に遭ったとしたらどのように感じるでしょうか。少なくとも感謝の言葉は決して出てこないと思います。しかし、親鸞聖人はこの逆境に感謝されています。心からの感謝の気持ちがにじみ出ています。
確かにこぼした水は元に戻すことはできないかもしれません。しかし、水をこぼしたことの意味は変えられるのではないでしょうか。 「悲しい」「悔しい」「腹立たしい」出来事は、自分の心が反応して創り出した感情なのです。自分の心を変えることで、過去の辛い経験は、私を育ててくださった経験に置き換わり、苦しみは消えていくのです。自分の生き方って、素敵だなと思える生き方をしてほしいと願いをかけておられるのが「南無阿弥陀仏」の呼び声なのです。阿弥陀さまは、過去に未練を感じる生活から決別し、過去の意味を、今を生きていく原動力に変えることができるように、励まし続けてくださっています。
]]>私たちの身体や心は、周囲からの影響を受けて変化し続けており、歳を重ねた後には必ず死が訪れます。手に入れた新車もすぐに古くなってしまいます。皆が健康な家族との生活も、誰かが新型コロナウイルスに罹患すれば、一瞬にして崩れ去ってしまうかもしれません。しかしながら、私たちが日々の生活の中で求めているのは、変わらぬ自分自身であり、自分の所有物が新しいままであることや、現在の環境が永遠に続くことなど、自らの欲望が充足し続けることなのではないでしょうか。
このような私たちのありさまが、『譬喩経』の「黒白二鼠」で喩えられています。ある旅人が、果てしない広野をさまよっていたところ、突然、狂った象に襲われます。逃げ惑ううちに、一つの空井戸を見つけました。その空井戸には、都合よく一筋の藤蔓が底に向かって垂れ下がっており、それに掴まって下に降りて行くことができました。狂った象は、井戸の外で唸り続けていますが、とりあえず危機は脱することができました。
しかし、ふと気づくと、井戸の底には、恐ろしい毒龍が潜んでいて、旅人を飲み込もうと、大口を開けて待ち構えているではないですか。驚いて、藤蔓にしがみつき、周囲の壁に足を掛けようとすると、四隅に一匹ずつ毒蛇がいて、噛みつこうとしています。今はもう、藤蔓のみが命の綱なのですが、今度は黒白二匹の鼠がどこからか出てきて、代わる代わるその蔓の根をかじっているのです。藤蔓をかみ切られては一大事と、左右に揺れながら悶え苦しんでいると、その揺れが伝わり、蔓の根のところにある蜂の巣からポタポタと蜂蜜がこぼれ落ち、その中の五滴が、旅人の口に入ったのです。そのあまりのおいしさに、旅人は現在の危機的状況をすっかり忘れて、さらに蜂蜜を味わおうと、藤蔓を揺らし続けてしまうのだというお話です。
このお話の中で、旅人が果てしない広野をさまよっているのは、人間が真理に気づかず、無意識な迷いの生活を送っていること、狂った象に襲われたことは、無常に責められていること、空井戸は、生死の淵のこと、毒龍は、死の影のこと、四隅の毒蛇とは、我々の身体を構成している四大(地・水・火・風)のこと、藤蔓とは、命の綱のこと、黒白二匹の鼠とは、昼夜の時間のこと、五滴の蜂蜜とは、五欲の享楽(眼・耳・鼻・舌・身の五根の対象となる色・声・香・味・触の五境に対する享楽を指しています。いずれも変化し失われるものであるのに、永遠に変わらずに楽しむことができると思いこんでしまうということを喩えています。真実に気づかないまま生きている私たち凡夫のありさまを示しているのです。
今、私自身が手に入れたいと思っている変わらぬ自分自身、自分自身が所有していると思い込んでいる地位や名誉や財産は、どれも、周囲からの影響を受けて成り立つものなので、永遠に続くものではありません。それらを手に入れたと思った一瞬の喜びの後には、失ったときの苦しみがやってきます。
この世のものは変化し続けるのだという現実をしっかりと認識し、変化を受け入れ、楽しむくらいの余裕をもつことができればよいですね。歳を重ねるということは、老化が進み、思い通りに身体が動かなくなることを伴うかもしれませんが、多くの人生経験を積み、若い方々にアドバイスができ、多くの方々に支えられてきた自分の命の大切さに気づく機会を得ることができるかもしれません。手に入れた新車がすぐに古くなっても、修理を繰り返すうちに、愛着がわき、より大切にしようという気持ちが生まれるかもしれません。誰かが新型コロナウイルスに罹患すれば、心配してくれる家族の存在をより一層感じることができ、罹患したことも意義あることと捉えることができるのかもしれません。
「諸法無我」「諸行無常」の教えなど変わらぬ真理に基づいた生き方、すなわち、今の一瞬一瞬を貴重なものだと知り、その一瞬を活かす生き方とはどのようなものなのか問い続けることこそ、人生にとってもっとも必要なことだと思うのです。
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