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法話 91号 2月・3月 発行

無常感と無常観

河智義邦

1.良寛さん
  裏を見せ 表を見せて 散るもみじ
 この句は、良寛が晩年、和歌のやり取りを通じ心温まる交流を続けられた弟子の貞心尼が、良寛との和歌のやり取りをまとめた歌集「蓮(はちす)の露(つゆ)」に出てくるものです。有名な句なのでご存じの方も多いと思います。
貞心尼が、高齢となり死期の迫ってきた良寛のもとに駆けつけると、良寛は辛い体を起こして、貞心尼の手をとり
  いついつと まちにし人は きたりけり いまはあいみて 何か思わん
と詠んだそうです。そして最後に貞心尼の耳元で「裏を見せ 表を見せて 散るもみじ」とつぶやき、亡くなられました。
 この歌には「あなたには自分の悪い面も良い面も全てさらけ出しました。その上であなたはそれを受け止めてくれましたね。そんなあなたに看取られながら旅立つことができます」という貞心尼に対する深い愛情と感謝の念が込められているのではないかと解釈されています。最後の「裏を見せ 表を見せて 散るもみじ」について、貞心尼は「この歌は良寛ご自身の歌ではないが、師のお心にかなうものでとても尊いものだ」と述べています。良寛の着飾らなく真摯な人柄に触れ、心が和み、幸せな気持ちになる、そんな歌のように感じる一句であります。
 ちなみに、この句は美濃の俳人、谷木因(タニボクイン)の「裏散りつ 表を散りつ 紅葉かな」に拠って、良寛がつぶやいた句を貞心尼が「蓮の露」に記したものであります。谷は岐阜大垣の廻船問屋の主人で、北村季吟の門に入り、松尾芭蕉とは同門の友人として有名です。同じような句ですが、僧侶の良寛が詠む句の方に、単なる世の無常(世の移ろい)ではない味わい深さを感じてしまうのは、私のひいき目かも知れません。

2.無常感と無常観
 こうした仏教的な世(人生も含む)の無常については、日本の文学作品には様々に表現されるところです。最も有名な菜『平家物語』には、
  祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
  沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす
とあります。また『方丈記』には、
  行く川の流れは絶えずして しかももとの水にあらず
とあって、こうした無常の捉え方は、本居宣長の言葉を借りると「もののあわれ」感と呼称することができます。この無常の捉え方について、評論家の小林秀雄は、これらは単に、人間や世間のはかなさ、頼りなさを情緒的、詠嘆的に表現しようとした日本的美意識としての「無常感」であり、インドの仏教が主張する、苦を脱却するための「無常観」とはかなり趣が異なると論評しています。

3.、松尾芭蕉の辞世の句
 仏教本来の無常観を考えるにあたって、松尾芭蕉さんのエピソードを取り上げてみます。
芭蕉さんの最後の句は、「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻(めぐ)る」と言われています。確かに人生で最後に詠まれた句と言えます。しかし、芭蕉さんは決してこれを「辞世の句」とは考えていなかったようです。晩年に、「辞世の句」を望んだ門人に対して芭蕉は、
  昨日の発句は今日の辞世、今日の発句は明日の辞世、一句として辞世ならざるはなし
と仰ったそうです。つまり、芭蕉は、今までに自分が詠んできた一句一句はすべて、明日をも知れぬいのちであるから、今日、この時が最後とも思い、辞世の句として大切に詠んできたというのです。「平生即ち辞世なり」とことさら辞世の句を示さなかったのです。
無常観とは、世界と人間の実相をよくみることで、「今のいのち」を精一杯生きると言うことだと思います。虚無主義的な無常感とは一線を画するものと言えましょう。
 しかし、前言を撤回するわけではないのですが、虚無的に人生や世の中を見ることも、仏教の無常には含まれているのではないかとも思うのです。「自分の思い通りにならない」、こうした把握から、真実とは何かを考えるきっかけになるとも思います。
 良寛の、「散る桜 残る桜も 散る桜」にはどちらの要素も入っていて、ほんとに味わい深さを感じます。

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